相対評価と絶対評価

 年配の収集家であればよく御存知だと思いますが、昔(今から約40年くらい前)、日本の古銭界は今ほど状態による価格差はありませんでした。例えば、明治7年の10銭銀貨は、並品で20,000円、美品で40,000円、極美品で50,000円、未使用品で80,000円、完全未使用品で120,000円、そんな感じではなかったかと思います。もちろん古銭の種類や年号によって事情は様々ですが、近代銀貨を例にすれば、並品と完全未使用品の価格差は5~6倍、せいぜい10倍くらいだったと記憶しています。その時、すでにアメリカでは、並品と完全未使用品との価格差は約100倍くらいありました。今の日本と同じですね。今や日本もアメリカ並に状態による価格差が生まれています。古銭に関して、一番大切なものはもちろん"真贋"でしょうが、真贋の判断が極めて難しい特殊な古銭を除いて、"真贋"の白黒はまあはっきりしています。

 ところが、"状態"はそうはいきません。状態はある意味"主観"なので、もめるわけです。スラブの数字が1違うと、価格が2倍以上開くことも珍しくなくなりました。そういう意味では、古銭売買にとって、今では"状態"が一番重要なfactorだと言えるのではないでしょうか。

 この"状態"について、少し曲者なのが"相対評価"です。私は基本穴銭はやらないし、わからないのですが、皇朝銭は昔少し集めていました。昔昔、私がまだ若かったころ、ある古銭屋のおやじさん曰く、「延喜通寳やったら、これで美品やで。そりゃ、和同開珎の美品とは違うわ。もともと貨幣の出来が違うもん。延喜通寳で和同開珎並みの美品なんてないわ」

 一瞬そんなもんか、そりゃそうだよね、と思ったのですが、私はやっぱりおかしい論理だと思いました。おやじさんの主張は、古銭の状態を相対評価したものでした。学校の通知表が相対評価できるのは全ての生徒の点数が分かっているからであって、おやじさんは日本に現存している全ての延喜通寳を見たことはないはずです。もちろん、長年の経験から出た推測であり、概ねその通りだろうとは思いましたが、やっぱり納得が行きませんでした。文字が潰れて読みづらい延喜通寳はやっぱり並品であり、美品ではないはずです。

 そのおやじさんが「この旭日10銭の大正6年、綺麗やろ。他の年号やったら完全未使用やけど、大正6年は綺麗なものが多い年号やしなぁ、まあ、未使用という評価かな」と言ってくれるのなら納得しますけど。状態が良いときは必ず"絶対評価"になるんですよ。やっぱり。